研究所だより

平湯文夫の研究所だより No.85


とうとう寝たきり老人になったかと思いました。

 先月、「70歳には見える」と励ましてもらったばかりでしたのに、膝をくじいて、2,3日、1歩も歩けないほどでした。
 今、20日ほどたち、少し歩けるようにはなりましたが、鈍痛がつづくのが気になります。全国を飛びまわって、足腰に不具合がないことを感謝しつづけていましたのに、もう一度動きまわれるよう回復することを祈るばかりです。


35歳で教えた高校生たちの還暦同窓会に参加しました。

 予想をはるかに越えたとかで会場はあふれかえっていました。思い出せなくなった者たちが多かったのは残念でしたが、それでも、大勢の中をかきわけるようにしてさがしあててきてくれた者たちもけっこういて嬉しいことでした。
 この学校は、熾烈な進学校で、大学受験でどれだけ得点できるのかの指導に徹していたようなところで、それにおし流されていた12年間でした。不本意な先生たちもおられたようですが、大勢としては、よくまあこんなにまで懸命になれるものだと不思議でした。自分でも、O社の「傾向と対策」などを20年分も神田の古本屋街などをあさって揃えたりしました。補習授業、合宿、試験問題づくりと採点に休日も夜もない12年間でした。学生時代から求めつづけていた国語教育とはほど遠い、それは受験指導でした。その中で、学校図書館の経営と、新しい公共図書館や子ども文庫づくりに懸命だったのですから、大変な毎日でした。
 そして、42歳でキャリアチェンジ。高校の国語教師から短大で図書館学を教えることになったのでした。


『昭和天皇実録』が完成。学ぶ時間のない素人にはありがたいものでした。

 太平洋戦争を始めるときと終わらせるときに関心を集中させました。一口で言って、軍部のひどさと指導層のだらしなさを思いました。あの愚劣極まりない戦争を遂行するのに、軍部はあれほど天皇を利用して国民を不幸におとし入れながら、その天皇を軍の上層部は徹底的に愚弄していたことがはっきり分かりました。


珍しく欠かさず観た朝ドラ『花子とアン』も終わりました。

 悪玉が1人(?)もいなかったこと、みんな「魂」をもって生きている人たちばかりだったことがすばらしかった。そして、「積極的平和主義」など詭弁を弄して日本を滅ぼそうとしていることに自らも気づかぬ現政権への果敢な挑戦に、プロデューサーも作者も演出も俳優も懸命だったと見ました。戦争にかかわることのほとんどを、私も同時代人として経験し、また、登場人物たちは、私の身内、身のまわりにいました。それを経験した人がほんとに数少なくなったなかで国が動かされていくのが恐ろしいことです。
 戦争が終わって、子どもたちのための図書館をつくるところまで出てきて、「やっぱり出てきた」と妻と喜びあいました。実は、中学3年で、東京杉並に行った私も、のちに著名になった、当時、旧制高校生や大学生たちで焼け跡につくった「すいれんこども文庫」に私もかかわっていたのです。
  「私は、自分のほかだれにもなりたくない」などの名せりふもいくつもありました。


 この「便り」の昨年5月31日号で書いた、太平洋戦争で帰らなかった兄のインドネシアからの便りを紹介します。「花子とアン」で観たつらいこと悲しいことは私の身辺にもたくさんありました。


この記事は、2003年7月1日から平湯文夫先生が自身のホームページ「図書館づくりと子どもの本の研究所」に掲載した研究所だよりを再編集して転載したものです。


研究室だよりの目次へ戻る


関連するエントリー

最新のエントリー

エントリー一覧へ >